みんな一緒は幸せじゃない

 僕は「病気だから」という言葉が大嫌いです。病気だから○○できない。それに続く「だからあなたはサポートしないといけないですよ」はヘドが出ます。
 目が見えないやつ、耳が聞こえないやつ腕がないやつ、足が使えないやつ。それが治るんだったら話は別だよ。だけど、治らないうえに俺たちに身の回りの世話をさせるのはおかしいでしょ。普通の学校に来るなよという話です。


 まぁそんなこと言ったらボロクソ叩かれたのが小学生時代です。とんでもないこと言うクソガキですね。今でもその考えは変わっていませんが、ちょっときれいな言葉と補足を付け足します。

 体に不自由があるならその人たちを集めてその人たち専門の教育を受けさせましょう。目が駄目ならろう学校でお勉強って感じです。目が見えないなりにどういう風に暮らしていくのか、どうやって食っていくのかを生きていく上で学んでいかないといけないよねって話です。
 お前それただの隔離じゃねぇかよ。差別主義者!しね!という言葉が聞こえてきそうですね。でも、目が見えない人たちに目が見える僕たちと同じようなことをさせるの?って話です。
 目が見えない人と目が見える人でテニス……やりますか?空手、柔道、野球にサッカー。ハンデなしで。エゲツなくないですか?片方が派手にボッコボコにされるのをゲラゲラ笑いながら観賞したいのかな?って感じです。

 回りの人たちに支援して貰いながら健常者と同じような生活を送るっていうのは人間社会の理想的な形かもしれません。しかしながら世の中はそこまで親切で気が利いて理解力のある人で溢れていないのは点字ブロックの上に自転車が駐輪されている現状を見ればわかってもらえると思います。結局、最後に頼るのが自分なんです。じゃあ、自分を頼るにはどうすればいいのかっていう話になると自分の身体にあったしかるべき教育を受けて自分の身を守ること。それは安全的な意味だけじゃなくて生活とか趣味とかもです。

 人の支援は大切です。でもそれが過保護のものであってはいけません。せめて最低限の支援で自分の足で、足がなければ足に変わるもので歩かなきゃいけないんです。歩かざるを得ない時のために。手厚い加護が永遠に続くわけではありません。そこのところを考えてお互いが生活していければいいのになぁって口の聞き方に注意しながら生きていきたいという話です。